ツールとしての宗教

最初に断っておくと、僕はほとんど信仰心を持ち合わせていない。

神仏や怪異のたぐいは、別にいてもいなくてもいいと思っている(いたら面白いとは思うけど、これはまた別の機会に書きます)。
自分の外にある何かを拠り所にしたがるような性格もしていない。

にも関わらず、晴れていれば1日1回、散歩がてら近所の神社に参ってきたり、

薬師寺寛邦さんの般若心経ミュージックが好きでよく聴いていたり(ページ下部に貼っておきます)、

仕事前に瞑想の時間を作ったりしている。

なぜかというと、自分の役に立つから。それだけでしかない。


閑静な境内を歩けば、それだけで心が落ち着く。自分のメンタルのためだ。

願い事は一切しない。祝詞の後に、感謝だけを心の中で唱える。

心身ともに総じて健康であることに対して。
差し迫った命の危機もなく、世間のおかげさまで生きていることに対して。
基本的に良い方々と関われていることに対して。

そういうことに感謝しなさい、と誰かに諭されてやっているわけじゃあない。ふと気づいたら自然とそう思うようになっていた。
社会人になってすぐか、大学時代の終わり際か、まあざっくりその辺りから。

日々を生きていると、気づかないうちに視野が狭くなって、何かに執着して苦しくなってしまうと思う。

定期的に普通に生きていることを感謝していると、そういう苦しさが和らぐし、そもそも苦しさを感じにくくなってくる。

結局、自分のメンタルケアのためだ。

感謝の対象が漠然としているから、分かりやすいように神社というシステムを利用しているにすぎない。


メンタルコントロールの一環として、何冊かブッダの考え方に関する本も読んだけど、仏教そのものには全く明るくない。

般若心経を聴くのは、音楽に合わせて聴いているとなんとなく落ち着くから。

それと、近視眼的になってしまった意識を、ニュートラルに戻してくれる言葉でもあるから。

ちなみに面白いのは、宗教の対極とも言える科学の知識があることで、般若心経の意味を理解しやすくなることだ。
原子やビッグバンのこと、生態系のこと、地球環境の変化の歴史など、基礎の基礎をちょっと知っておくだけで、般若心経の「空」の概念を理解しやすくなると思っている。

般若心経の現代語訳は、こちらの記事が分かりやすくて面白い。

https://www.zen-essay.com/entry/hannyashingyou#%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C

話が逸れたけど、やっぱりこれも、自分のメンタルケアのためだ。


僕ら、宗教の話は避けがちだけど、純粋に自分のためのツールと割り切って宗教を使うのもアリでは?と思います。

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